「給料の話じゃないんです」
「給料の話じゃないんです。主任と合わなくて、という退職ばかりで」
名古屋市内で特養を運営するA理事長が、会食の席で箸を置いてそう言いました。精神障害の労災請求は、業種別で「医療、福祉」が一番多い。その数字を読んだばかりだった私は、すぐには返事ができませんでした。
10月9日、政府は令和8年版の過労死等防止対策白書を閣議決定しました。過労死等防止対策推進法にもとづく国会への年次報告で、今回が11回目です。概要版には、介護事業を名指しした一文があります。今日はその一文と、A理事長のひと言の話をします。
請求1,288件。全業種で最多は「医療、福祉」でした
先に数字を並べます。厚生労働省が7月15日に公表した令和7年度「過労死等の労災補償状況」によると、精神障害の労災請求は4,958件。前年度から1,178件増えています。
業種別(大分類)で一番多いのが「医療、福祉」の1,288件です。2位の製造業が720件、3位の卸売業・小売業が645件でした。頭ひとつ抜けています。中分類まで下げると「社会保険・社会福祉・介護事業」が請求706件、支給決定151件で、どちらも全業種の中で最多です。
請求が多いだけではありません。労災として認められた件数でも、介護事業が一番多い。
白書の概要版も同じ傾向を書いています。精神障害の請求を業種別に見ると「医療、福祉」が最も多く、中分類では「社会保険・社会福祉・介護事業」が最も多い。調査研究の重点業種に入っている「医療」は、精神障害の労災支給決定事案を3年度ごとの平均で比べると、令和3〜5年度が平成24〜26年度の約3倍になっていました。
では、労災と認められた事案には、どんな出来事が多いのか。
一番多い出来事は、上司からのパワハラ
労災補償状況には、支給決定を「出来事」別に数えた表があります。全業種の合計で最も多かったのは「上司等から、身体的攻撃、精神的攻撃等のパワーハラスメントを受けた」で222件。次が「顧客や取引先、施設利用者等から著しい迷惑行為を受けた」と「セクシュアルハラスメントを受けた」で、どちらも127件です。
この222件と127件は全業種の数字で、介護だけを切り出した値ではありません。そこを補っているのが白書の概要版です。「医療、福祉」の決定件数を出来事別に見ると「対人関係」が最も多い。出来事の類型全体でも対人関係の伸びが最も大きく、なかでも「上司とのトラブル」の伸びが大きいと書かれています。
数字が指しているのは、人と人のあいだです。
A理事長の「主任と合わなくて」は、統計の側から見ても外れていませんでした。
主任を外しても、同じことがまた起きる
こういう話になると、問題の主任を別のフロアへ異動させて終わりにする法人が少なくありません。よくある手です。私も何度か見てきました。しばらくすると、別のユニットから似た相談が来る。
介護の主任は、たいてい現場で一番仕事ができた人が上がるポストです。ケアの腕を見込まれて昇格したものの、部下の指導のしかたは誰からも教わっていないまま、人手の足りないフロアを回しながら夜勤明けの疲れた朝に強い口調が出てしまう。言われた側の相談先は、その主任しかいない。人だけ替えても、次の主任が同じ場所でつまずく。
法律も、責任の置き場所を主任個人にはしていません。労働施策総合推進法の第31条は、パワハラについて職員の相談に応じ、適切に対応するための体制の整備を事業主に義務づけています。第32条第3項には、法人であればその役員自身も職員への言動に注意を払うよう努めなければならない、と書かれています。
理事長も当事者です。
利用者や家族からの言動も同じ扱いです。2026年10月1日施行の現行条文では第33条が、施設の利用者などの言動から職員の就業環境を守るための相談体制の整備などを事業主に義務づけています。
11月までに、理事長がやることは3つです
11月は過労死等防止啓発月間です。過労死等防止対策推進法の第5条で定められています。行政からの周知が増えるこの時期に、法人の中でも手を付けておきたい。難しいことはしません。私がA理事長に話したのは次の3つでした。
相談の一次窓口を、主任のラインの外に置く
誰でもいい。施設長でも、本部の事務長でも構いません。主任とのトラブルを、その主任を通して相談する仕組みでは誰も声を上げません。休憩室に、窓口の名前と連絡先を1枚貼る。そこからで十分です。
退職面談の記録を、理由別に数え直す
「一身上の都合」でひとまとめにしている記録を、人間関係・業務量・家庭の事情に分けて、直近1年分を数えてみてください。どのユニットの、どの主任の下で辞めた人が多いのかが、数字の並びでそのまま見えてくるはずです。
指導と叱責の線引きを、1枚の紙で主任に渡す
研修を外に頼む前に、法人として「ここから先は言わない」を書いた紙を作ります。1枚で足ります。第31条が線を引いているのは、業務上必要かつ相当な範囲を超えたかどうか。夜勤の申し送りで実際に出た言い方を例に挙げると、主任にも伝わりやすくなります。
A理事長は2つ目から手を付けると言っていました。記録を数え直すだけなら、翌朝からでもできる。うちが事務長業務を預かる法人でも相談の窓口は事務長の側に置く形をすすめていて、現場の上下関係から一歩外れた人がそこにいるだけで、職員が口にできることはずいぶん変わります。
会食の帰り際、A理事長が「給料を上げる話のほうが、まだ楽でしたね」と笑いました。給料は理事会で決められます。主任とのあいだで起きていることは、誰かが聞きにいかないと表に出てきません。
あなたの施設で最後に辞めた職員は、誰に「辞めます」と伝えましたか。
出典・参考情報
- 「令和8年版 過労死等防止対策白書」を公表します(厚生労働省、確認日:2026年10月11日)
- 令和8年版 過労死等防止対策白書(概要)(厚生労働省、確認日:2026年10月11日)
- 令和7年度「過労死等の労災補償状況」を公表します(厚生労働省、確認日:2026年10月11日)
- 労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律(e-Gov法令検索、確認日:2026年10月11日)
- 過労死等防止対策推進法(e-Gov法令検索、確認日:2026年10月11日)
※ 上記リンクは掲載時点のものです。制度・数値は公表元の最新情報をご確認ください。
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